鯖江歴史街道

福井県鯖江市の昔と今、これからを伝えるサイト

城下町 鯖江

間部氏の入封

鯖江地区はその昔、越前四箇本山(えちぜんしかほんざん)の一つ、誠照寺(じょうしょうじ)の門前町でした。

江戸時代に入ると、鯖江村に幕府直轄の西鯖江陣屋 が置かれました(1691(元禄4)~1720(享保15)年)。 当時の鯖江は今の市域のようにはなっておらず、北陸街道を境に誠照寺・陣屋周辺(街道西側)が幕府領、反対側(街道東側)が小浜藩領となっていました。また、周辺には福井藩の領地もあり、各藩の領地が入り組んだ状態となっていました。

その後、1720(享保15)年に越後村上藩(現在の新潟県村上市)より譜代大名間部詮言(まなべあきとき)が入封し、鯖江は1871(明治4)年まで城下町として栄えました。

鯖江藩では教育環境の整備も盛んに行われています。1813(文化10)年10月には江戸藩邸に惜陰堂(せきいんどう)、翌1814年5月7日には藩校の進徳館(しんとくかん)が開設され、藩士の教育環境が整えられました。さらに1850(嘉永3)年には、藩士の小倉喜藤兵衛の取立願いにより、庶民の教育のための学舎として謙亨舎(のち謙光舎(けんこうしゃ))が藩によって設けられました。謙光舎は主として心学(道徳)を学ぶ場として、明治4(1871)年の廃藩まで続きました。

鯖江藩主 間部詮勝

1814(文化11)年9月22日、前藩主 間部詮允(あきざね)の急死によって、11歳で鯖江藩第7代藩主となった間部詮勝(まなべあきかつ;1804~1884年)は、歴代の鯖江藩主の中でも名君として知られています。

1856(安政3)年には、領民の憩いの場として「嚮陽渓(きょうようけい)」(現在の西山公園の基礎)を開きました。「嚮陽渓」の「嚮陽」には、「自然に親しみ、陽に嚮(むか)って、常に明るく、いつも隣人を愛する」という意味があります。なお、諸大名が自らのために庭園を造らせる事は珍しいことではありませんでしたが、領民のことを考えた庭園の造営は、嚮陽渓と水戸藩の偕楽園を除き、例がないといいます。

詮勝が藩主となった当時の鯖江藩は、御達山(おたてやま)(現在の市中心部にある長泉寺山(ちょうせんじやま)の辺り)に城を築く計画を立てており、天保年間(1830~1843年)には幕府から築城費用五千両を下賜されるまでに至りました。しかし実際は、藩の財政困難、飢饉の発生などの問題や、土地が城の敷地としては手狭(幕府領などが混在)であったことなどから、「鯖江城」が築城されることはありませんでした(なお、当時の築城計画の図面は資料として残されており、まなべの館(鯖江市資料館)に模型が展示されています)。その代わり、築城費用は飢饉の被害で困窮していた各村に貸し与えられ、詮勝は名君と呼ばれました。なお築城予定であった場所に嚮陽渓を造営したのはこの後であり、詮勝がいかに領民のことを考えていたかがうかがえます。

なお詮勝は、幕末に大阪城代や京都所司代、井伊直弼大老時代の老中など江戸幕府の要職を務めたことでも有名です。老中の頃には安政の大獄(1858(安政5)年)で総指揮を執っており、「井伊の赤鬼、間部の青鬼」と言われ恐れられていました。

間部詮勝と嚮陽渓についての案内板(西山公園,2007年5月)

鯖江藩から福井県へ

1871(明治4)年の廃藩置県により鯖江藩は廃止され、鯖江県が設置、9代目藩主であった間部詮道(あきみち)が知藩事となりました。

その後、若狭地域の小浜県(現在の嶺南一帯)と合併して敦賀県となり、1873(明治6)年に足羽県と共に敦賀県(現在の福井県とほぼ同じ)となりました。

しかし1876(明治9)年には敦賀県が廃止され、嶺北が石川県へ、嶺南が滋賀県へ編入されました。1881(明治14)年2月7日、嶺北・嶺南が石川、滋賀両県から分離し、福井県となりました。

(関連)福井県史通史編5 近現代一 第一章第二節一 廃藩置県 図3

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