間部 詮勝
間部 詮勝(まなべ あきかつ;1804~1884年)は、第7代鯖江藩主であり、歴代の鯖江藩主の中でも名君として知られています。前藩主 間部詮允(あきざね)の急死によって、1814(文化11)年9月22日にわずか11歳で鯖江藩主となりました。
嚮陽渓
1856(安政3)年には、領民の憩いの場として「嚮陽渓(きょうようけい)」(現在の西山公園の基礎)を開きました。「嚮陽渓」の「嚮陽」には、「自然に親しみ、陽に嚮(むか)って、常に明るく、いつも隣人を愛する」という意味があります。なお、諸大名が自らのために庭園を造らせる事は珍しいことではありませんでしたが、領民のことを考えた庭園の造営は、嚮陽渓と水戸藩の偕楽園を除き、例がないといいます。
詮勝が藩主となった当時の鯖江藩は、御達山(おたてやま)(現在の市中心部にある長泉寺山(ちょうせんじやま)の辺り)に城を築く計画を立てており、天保年間(1830~1843年)には幕府から築城費用五千両を下賜されるまでに至りました。しかし実際は、藩の財政困難、飢饉の発生などの問題や、土地が城の敷地としては手狭(幕府領などが混在)であったことなどから、「鯖江城」が築城されることはありませんでした(なお、当時の築城計画の図面は資料として残されており、まなべの館(鯖江市資料館)に模型が展示されています)。その代わり、築城費用は飢饉の被害で困窮していた各村に貸し与えられ、詮勝は名君と呼ばれました。なお築城予定であった場所に嚮陽渓を造営したのはこの後であり、詮勝がいかに領民のことを考えていたかがうかがえます。
幕府の要職
詮勝は、幕末に大阪城代や京都所司代、井伊直弼大老時代の老中など江戸幕府の要職を務めたことでも有名です。老中の頃には安政の大獄(1858(安政5)年)で総指揮を執っており、「井伊の赤鬼、間部の青鬼」と言われ恐れられていました。