鯖江歴史街道

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砂村 新左衛門

砂村 新左衛門(すなむら しんざえもん;1601?-1667)は現在の鯖江市に生まれ、三国で活躍したのち、大坂、関東に進出していくつかの大きな新田開拓を行いました。

福井での足跡

砂村新左衛門は、江戸幕府が成立するころ(慶長6(1601)年ごろ)に越前国今立郡新村(現:福井県鯖江市新町)で生まれたとされており、その新村を開拓した福岡新兵衛家の分家の二代目であったと伝えられています。

新左衛門は農耕よりも土木の仕事に興味があったようであり、まず水落村(現:鯖江市水落町)、次いで三国(現:坂井市)と居を移して土木事業に携わったとされています。

当時の九頭竜川流域は、頻繁に起きる洪水に悩まされていました。当時の福井藩主であった松平忠昌(まつだいら ただまさ:第2代福井藩主)は、藩政立て直しのために技術力のあった新左衛門を重用したようです。

各地の新田開発へ

新左衛門は治水工事には飽き足らず、新田開拓をしたいという願望があったそうです。越前には有望な新田候補地が少なかったせいでしょうか、全国に調査に出かけます。忠昌はそんな新左衛門に資金を援助しました。新左衛門はこれを受けて三国の木場町と呼ばれる辺りで小さな築地を行いましたが、新田ではなく藩有地(番所と役人住居)だったようです。

新左衛門は温暖な相模国(現:神奈川県)の三浦半島にある内川入海に目を付けましたが、資金が足りませんでした。そこで1650年前後に、とりあえず摂津国(現:大阪市)に移って河川流域で小規模な新田開拓を行いました。

ところが、折しも、江戸では明暦3(1657)年に、江戸城までも焼失する明暦の大火(振袖火事とも呼ばれる)が起こりました。このとき信心深い新左衛門は、幕府にも縁の深い霊巌寺(後に松平定信の墓が建てられた)の移築を請負(寄進)しました。このことがきっかけになって、当時は洲だった宝六嶋(現:東京都江東区)というあたりの開発利権を得ることができました。江戸近郊だったので多くの出資者が集まり、資金問題は一気に解決しました。さらには武蔵国久良岐郡(現:横浜市)の新田開拓でも技術担当を頼まれました。新左衛門はそれぞれの地域で最大の新田三つの工事に同時に携わったわけです。1650年代後半から1660年代初めにかけて開拓されたそれらは、後に砂村新田(現:東京都江東区)、内川新田(現:神奈川県横須賀市)、吉田新田(現:横浜市)と呼ばれ、それぞれ独立の村になりました。なお、新左衛門の死後かもしれませんが、砂村新田と内川新田では子孫が代々名主(関西でいう庄屋、現代でいう村長)を務めました。

晩年とその後

新左衛門は、これらの開拓が一段落した寛文7(1667)年12月15日に、砂村新田の自宅で亡くなりました。墓碑は菩提寺であった浅草の善照寺に建てられました。この墓碑は震災もしくは戦災で失われましたが、新左衛門が再興した正業寺(神奈川県横須賀市久里浜)に子孫が建てた墓碑があります。また、大阪や東京の関連文書や遺跡は度重なる火災でほとんど失われましたが、内川新田跡には新左衛門が建てた石碑が残っています。

江東区の旧砂村新田にある富賀岡八幡宮(新左衛門が勧請したと伝わる)には新左衛門の顕彰碑が建てられており、墓碑や内川新田記念碑は横須賀市の文化財に指定されています。正業寺では横須賀市観光協会主催で(細々と)毎年法要(砂村新左衛門祭)が行われており、2016年には350回忌という節目を迎えます。

砂村新左衛門の研究

新左衛門が鯖江市の出身であることを昭和40年代に発見したのは鯖江市の高橋亮三氏です。高橋氏は教育者で郷土史にも深く関わっておられ、福井藩士の山崎英常がつづった「片聾記(へんろうき/かたつんぼき)」を研究されていましたが、その中で新左衛門の記述を発見しました。これは偶然ではなく、横須賀市の山内家と親戚関係にあり、姪であり教員であった山内和子氏と連携した結果だったのです。しかし残念ながら、鯖江では一部の郷土史家に知られただけで、その後一般市民が知ることはほとんどありませんでした。

最後に

砂村新左衛門については,今日の鯖江ではあまり知られていません。このページを通じて、少しでも砂村新左衛門について知っていただければと思います。

謝辞

このページの作成に当たって,溝手正儀様より資料を提供していただきました。この場を借りまして,厚く御礼申し上げます。