工場見学旅行編 2日目 (3/3)

< 知覧特攻平和会館 >

薩摩半島の湖 池田湖

 鹿児島宇宙空間観測センターから出た一行は,大隈半島を横断して根占港へ行き,そこから対岸の薩摩半島にある山川港へと渡って,池田湖 の方へ向かった。 池田湖の南には 薩摩富士 として知られる 開聞岳 がそびえたっていた。 標高は922mと,数字の上では小さめに感じるが,周りに大きな山が無いからか,とても大きいという印象を受けた。

 池田湖で昼食を済ませた後,一行は 知覧町 にある 「 知覧特攻平和会館 」 へと向かった。この知覧町には,1942 (昭和17) 年に陸軍の飛行学校の分教所が置かれ, 太平洋戦争 のさなか,少年飛行兵らの操縦訓練が行われていた。 だが,1945 (昭和20) 年,戦況の悪化を受けて 本州最南端の特攻基地 として使われるようになり,多くの若者が米軍艦へと飛び立ち,そして死んでいった という。 会館周辺には当時の兵舎や,特攻兵士を慰める像などが置かれていた。 館内に入ると,そこには海底から引き揚げられた戦闘機,または特攻に向かって死んだ 少年兵士らの遺品 などが展示されていた。 会館の人の話によると,特攻に向かって亡くなった隊員は 1036名に上り,そのほとんどが,10代後半から 20代といった 若い世代の人々 であったという。 特攻が行われた年は,ちょうど太平洋戦争が終結した年でもあったが,同時に,米軍の本土空襲沖縄戦 など,戦時中最も激しい戦闘が行われていた頃である。 その頃に学徒出陣が実施されるなど,青少年らの 「 参戦 」 が行われたのは歴史でも知ってはいたが,実際にこのような詳しい話を聞くと,改めて戦争の悲惨さ,無情さを感じられずにはいられなかった。

 館内には,出撃へ向かう直前に撮られた写真がいくつか展示されていた。 その一つに,何人かの若い隊員らが子犬を抱えて写っているものがあった。 隊員らはみな笑顔で写っていた。 もちろん,そこに写っていたのはこれから特攻に向かう直前の隊員たちである。 覚悟を決めているだけなら,笑顔ではなくもっと緊張した顔つきになるはずである。 恥ずかしいことだが,僕はこの写真に関して何も考えることが出来なかった。 特に興味が無かったからではなく,写真の少年らの境遇を察する事が,あまりにも難しく,重大なことだったのだ。 この平和な世の中で生きる自分たちにとって,同じ年齢でありながら,戦場での死を迎えた彼らの心情を語るには,あまりにも事は重大である。 しかし,この平和な世の中で生きているからこそ,太平洋戦争で亡くなった彼らのことを語り継がなければならない。 彼らの心情を考えなければならない。 それが我々にとって,「 戦争と平和 」,あるいは「 生と死 」を考えるひとつの手がかりとなると思う。


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最終更新日: 2002/07/20